三國志的話題


三國秘話

南征にまつわる話
  南征の目的  

 225年、建寧太守・雍[門豈]と南蛮王・孟獲が反乱を起こしたため、諸葛亮は南征に出ようとするが、諫議大夫・王連が諌める。

「南方は不毛の地、瘴疫の国でございます。国家を担う重責にあられる丞相が、自ら遠征なさるのは良くありませぬ。雍[門豈]らは取るに足らぬ者ども、誰か大将ひとりをお遣わしになるだけで、たやすく平定のかなうことにございます。」

しかし諸葛亮はそれを退け、南征に出発する。なぜ、わざわざ諸葛亮が直々に行かなければならなかったのか。

 まず、南征の目的を整理してみると、

1.反乱を鎮める。
2.南蛮を配下にし、兵士・資源を確保する。
3.夷陵の戦いで大敗したあと、新しく編成した軍の実地訓練。
4.諸葛亮は軍を率いても強い、というイメージ作り。

というのが一般に言われるものである。1.については誰でも良いが、2.を成功させるには軍の指揮のみでなく政治にも長けた人物でなくてはならない。さらに、北伐の総大将に諸葛亮がなるとしたら、4.も必要である。実際に諸葛亮が兵を率いるのはこの南征の時が最初であった。つまり、戦場で兵の信頼を得る為、自分の指揮に自信を持つためにも、諸葛亮自身が兵を率いて、指揮をとる必要があったのだ。まとめて言ってしまうと、「北伐の準備行動」が、南征の目的だったのである。

 2.に関連して、南方は、金・銀・丹漆・耕牛・軍馬が豊富であり、北伐を控えて重要な財源となった。また、土着の将兵を蜀の軍籍に入れ、「飛軍」と名付けた。

  七縦七擒  

 南征にあたり、馬謖は諸葛亮に「南蛮を心服させるには城ではなく心を攻めるべきです。」と進言する。諸葛亮はこれを聴き入れ、南蛮王・孟獲を心服させるために孟獲を七度捕え七度放してやる。ここに至って孟獲も、「未だ嘗て、七度捕えて七度放つなど聞いたことがない。」と降伏する。『演義』第90回のことである。この話は『蜀志』諸葛亮伝には見えないが、裴松之の『注』にひかれる『漢晋春秋』や、巴蜀地方について記した『華陽国志』にある。ともに東晋の頃の成立であり、この逸話はかなり早い段階で成立している。

 実は「七縦七擒」の話、全く逆のものが存在する。今でも南方の少数民族に、「七度孔明を虜となす」という伝承があるらしい。ここでは、孟獲が少数民族を率いて蜀軍と戦った英雄として描かれている。七縦七擒の話は、漢民族中心の作り話なのである。

 いずれにせよ、南征はわずか半年で終了している。しかも反乱は単発的なもので、孟獲に七回も出る幕はなかったはずである。また、この南征では、蜀軍のはらった犠牲も小さくなかった。諸葛亮としても、孟獲を七回も放つほど余裕はなかったに違いない。

  南征の手柄は誰のもの?  

 張嶷という人物がいる。字は伯岐、巴郡南充国の人である。この人物は南方の異民族平定及び統治における功労者であり、南征時の諸葛亮のモデルがこの張嶷である。

 諸葛亮が越雋郡の高定を平らげたあと、同郡では異民族の反乱が相次ぎ、赴任する太守が全て殺されたため、太守が現地に赴任せず、800里離れた安上県に留まるようになってしまった。張嶷は越雋の太守に任じられると、彼らに恩を与えて信頼を得、従わなかった捉馬(部族名)を征伐したが、首魁の魏狼を殺さずに釈放して彼に爵位を与えるよう上表し、諸部族を手なずけた。

 諸葛亮の七縦七擒は、この張嶷の捉馬征伐が下敷きになっているのである。張嶷の死を知った南方の異民族で泣かぬものはなく、張嶷の廟を立てて四時に祀ったそうである。これも諸葛亮の死を知った孟獲ら南蛮族の反応と酷似している。

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